Kasha則とは:概要とその適用範囲について

Kasha則は光化学における基本的な経験則であり、物理化学者のみならず有機化学者にとっても重要な法則である。

 

Kasha則: ほとんどの分子において、蛍光波長は励起波長に依存せず、常にS1→S0の蛍光のみが観測される。

 

まずは簡単に解説をする。

 

そもそも蛍光を測定する時は、まず分子に光を当てて励起する(この光を励起光と言う)。励起光によって高エネルギーとなった分子は、そのエネルギーを蛍光として放出して基底状態S0へと戻るので、それを観測するというわけである。

このような概念図はヤブロンスキー図と呼ばれる。振動準位など省いて簡略化した。また、本来内部変換は波線矢印で描かなければならないらしいが、パワポになかったので輻射遷移と色分けして直線で描いている。

この際、最初の励起段階では、分子はS1よりもエネルギーの高いS2やS3にも励起されうる(励起光の波長は任意なので、波長を短くすればするほど高エネルギー状態に励起される)。ではS2→S0やS3→S0の蛍光が見えるかと言うと、普通は見えない。なぜかというと、蛍光が起こるよりも速く、S2→S1やS3→S1の熱的な失活が起こるためである(この異なる励起状態間の光を発さない失活を無放射遷移、無輻射遷移、内部転換、内部変換などと呼ぶ)。蛍光がナノ秒より遅いスケールで起きるのに対して、Sn→S1への内部変換はピコ秒スケールで非常に速い。このような理由でKasha則が成り立つ。

 

以上でKasha則の簡単な解説は終わりである(より詳細なことは別記事にまとめる)。

 

ところで、有機化学者にとっては蛍光それ自体にはあまり興味がない場合も多い。せっかく光触媒を励起するのだから、蛍光を発するよりも電子の授受を行ってくれた方が都合が良い。

では、電子授受も必ずS1から起こると言えるだろうか。ここからは丸善出版の『光化学Ⅰ』第5章を参考にして、励起された分子が基底状態の相手分子と電子のやり取りをするシチュエーションについて考えてみよう。

 

電子の移動自体はフェムト秒の極めて速い時間スケールで起こる。ただ、そもそも電子を授受するには相手の分子と出会う(衝突する)必要があるわけだから、実質の移動速度はもっと遅い。

電子移動に関して「~13 kJ mol-1(3 kcal mol-1)以上の発エルゴン性(exoergonic)であれば,通常,拡散律速過程となる.」(『光化学Ⅰ』82ページより引用)らしいので、簡単のため、ここでは拡散律速(出会いさえすれば必ず電子授受が起こる、つまり出会う速度が反応の速度を決める)としよう。

室温における拡散速度は「ベンゼンメタノールおよびエタノールなどでは(0.5-1)×1010 M-1 s-1」(『光化学Ⅰ』81ページより引用)であり、これに電子授受の相手分子の濃度をかければ電子授受の速度が求まる。

 

通常の光化学反応では、電子授受の相手、つまり基質の濃度は0.1 M程度にするのが普通である。この場合の反応速度は

 

(0.5-1)×1010×0.1=(0.5-1)×109 s-1

 

である。逆数をとって寿命にすると、1-2 nsになる。

『光化学Ⅰ』75ページによると、蛍光放射も同じく1 ns以上の遅さで起こるので、この場合はKasha則を電子授受にも適用してよさそうである。

 

次に1 Mの濃い場合でも計算をしてみよう。この場合の反応速度は

 

(0.5-1)×1010×1=(0.5-1)×1010 s-1

 

である。逆数をとって寿命にすると0.1-0.2 nsとなり、蛍光よりも速い。

『光化学Ⅰ』77ページによると、S2からS1への内部変換は1011 s-1以上の速さで起こるので、試しに内部変換の速さを1011 s-1、電子授受の速さを1010 s-1として、S2からはこの二つの経路しか起こらないとしよう。

 

このとき、S2における電子授受の反応量子収率は

 

1010/(1011+1010)=9%

 

となる。つまりS2の電子のうち91%はS1へと失活し、9%は基質と電子授受を行うことになる。9%という数字はかなり小さいものの無視できるほどでもない微妙な値だが、これは内部変換の速度をその下限である1011 s-1と仮定して考えた場合の数字ということには留意する必要がある。

 

まとめると「電子授受が必ずS1から起こるかどうかは相手分子の濃度によるが、そこまで濃くしない限りはそう言ってよい」といったところだろう。

酸化電位と還元電位とは何か:酸化還元電位とは何が違う?

酸化還元電位の定義については、調べれば出てくるので割愛する。ここでは有機光化学を研究する際のもう少し実際的な話を取り扱う。

 

注: この記事では一つの電子の授受のみを扱う。また、簡潔さを重視して励起状態はS1のみを考える。

 

まず、実際に論文で頻用されるのは「酸化還元電位」ではなく「酸化電位」「還元電位」という表現である。これらは何が違うのか。

酸化還元電位は例えば下のような一つの半反応式について定義される。

 

NEt3 ⇄ NEt3・+ + e

 

このトリエチルアミンが一電子を失う式の酸化還元電位は0.83 V (vs. SCE) である(文献: Synlett, 2016, 27, 714-723)。

 

大事なこと: そしてこの0.83 Vという値は「トリエチルアミンの酸化電位」であり「トリエチルアミンラジカルカチオンの還元電位」でもある。

 

これで何となく分かると思うが、あえて厳密に定義すると:

化合物Aの酸化電位と言った場合、以下のようなAが酸化される半反応式の酸化還元電位を示す。

A ⇄ A・+ + e

化合物Aの還元電位と言った場合、以下のようなAが還元される半反応式の酸化還元電位を示す。

A + e ⇄ A・−

 

酸化電位と還元電位の定義は以上である。

次に酸化電位と還元電位が実際何を表すのかを述べる。

 

大事なこと: 酸化電位は低いほど酸化力が強い。還元電位は高いほど還元力が強い。

 

こういうのは往々にして「酸化電位は低ければいいんだっけ?高ければいいんだっけ?」となりがちだが、その際は以下の事実を覚えていれば簡単にどっちがどっちか導ける。

 

前提: 電子は電位が低い方から高い方に移動する。

(電位は電場における"高さ"みたいなもので、正電荷は電位が高い方から低い方に落ちると定義される。電子は負の電荷を持つので低い方から高い方に動く。)

 

酸化される側の化合物から還元される側の化合物に電子を動かしたいとする。ここで上記の前提があるわけだから、酸化される側の化合物は電位が低くて、還元される側の化合物は電位が高い方が都合がいい。よって「酸化電位は低いほど酸化力が強い。還元電位は高いほど還元力が強い」となる。

 

ここまでは基底状態の話だが、次に励起状態での「酸化電位」「還元電位」について述べる。

 

光電子移動に関しては物理化学の面で難解な理論があることを重々承知の上で、実際的には有機化学者は以下の簡単な足し引きの式を用いれば十分だと考える。

 

Ered* = Ered + 1ES

Eox* = Eox − 1ES

(ただしEoxEred基底状態の酸化電位と還元電位、Eox*Ered*励起状態の酸化電位と還元電位、1ESは一重項励起状態のエネルギーを表す。)

 

これはRehm-Wellerの式と呼ばれる(文献: Isr. J. Chem. 1970, 8, 259-271)。以下、どのようにしてこれを導くか考える。

 

ここからの説明は酸化電位も還元電位もほぼ同じなので例として酸化電位をとる。

Rehm-Wellerの式は「励起状態の酸化電位は基底状態の酸化電位に比べて1ESだけ低い」と言っている(1ESは正の値である)。前述したように酸化電位は低いほど酸化されやすいので、つまりRehm-Wellerの式は「励起されると酸化されやすくなる」と言っている。これはなぜか?

 

大事なこと: 励起されると酸化されやすくなる(還元もされやすくなる)。

理由(知っている人は読み飛ばしてほしい): ラジカルなどでない普通の安定な分子は、HOMO(最高被占軌道)に二つの電子を持つ。物質は低エネルギーを好むため、この分子が酸化される場合、一番エネルギーの高いHOMOの電子を一つ失うことになる。ではこれが励起されるとどうか。光励起されるとHOMOの一電子がLUMO(最低空軌道)に移る。この状態で酸化される場合、失う電子は当然LUMO(だった軌道)に入っている一電子である。なぜならそれが一番エネルギーの高い電子だからである。上記二つのHOMOから電子を取り去るのとLUMOから電子を取り去るのを比較すると、当然エネルギーの高いLUMOに入っている電子の方が取り去りやすいので、励起状態では酸化されやすくなる。

還元についても全く同じである。基底状態ではLUMOに電子を受け取るのに対し、励起状態ではHOMO(だった軌道)に電子を受け取るわけだから、還元はされやすくなる。

 

以上の理由で、励起されると酸化されやすくなるわけだが、これは定性的な話である。では定量的に”どの程度”酸化されやすくなるのか?上記の理由から考えると、基底状態の酸化電位はHOMOのエネルギーに依存し、励起状態の酸化電位はLUMOのエネルギーに依存するわけだから、励起によってHOMOとLUMOのエネルギー差の分だけ酸化されやすくなるのは明らかである。このエネルギー差がRehm-Wellerの式の1ESに相当するものである。

これでRehm-Wellerの式の意味は何となく分かったと思う。還元電位は高ければ高いほど還元されやすいので式のプラスマイナスは逆転するが、還元側にも全く同じ議論が成り立つ。

 

実際にRehm-Wellerの式を使う場合は、基底状態での酸化電位(還元電位)をサイクリックボルタンメトリーから、1ESを蛍光スペクトルから求めて足し引きする。サイクリックボルタンメトリーから電位を求める場合はこの論文を参考にすればよい(Synlett, 2016, 27, 714-723、電気化学的な話になるのでこのブログでは詳細は取り扱わない)。1ESは蛍光スペクトルのピーク波長(をエネルギーに変換したもの、eV単位)とすればよい。なぜか?

理由: 蛍光は励起状態S1から基底状態S0に遷移する時に、そのエネルギー差に対応する波長の光を放出する現象である。前述した「HOMOに二つの電子が入った状態」が基底状態S0に対応し「HOMOに一つ、LUMO(だった軌道)に一つの電子が入った状態」が励起状態S1に対応するから、この二つの状態のエネルギー差がそのままHOMOとLUMOのエネルギー差に相当すると考えてよい(細かい部分に関しては後で補足する)。

 

以上で解説を終了する。

ここで述べた知識を使って、例えば「合成した光触媒Aのサイクリックボルタンメトリーを測定したら基底状態の還元電位は−1.5 Vだった。また、蛍光ピーク波長は413 nm (3 eV)だった。なのでAの励起状態の還元電位は−1.5 + 3 = 1.5 Vぐらいだろう。これはトリエチルアミンの酸化電位0.83 Vより十分高いから、おそらく光を照射すればAはトリエチルアミンから一電子を奪い取れるだろう」という議論ができるわけである。

 

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ここまで読んでいただいた方に感謝いたします。

以下に長々と細かい補足を書くので、興味がない方は読み飛ばしてください。

 

補足1: なぜ「酸化電位」「還元電位」という表現が多用されるのかというと、これらが化合物について定義されるものであるからだと思う。要は「酸化還元電位」は半反応式に対して定義されるものであって、例えば「ベンゼン酸化還元電位」と言ってもベンゼンが酸化される半反応式の酸化還元電位なのか還元される半反応式の酸化還元電位なのかが分からない。でも「酸化電位」「還元電位」という表現なら、いちいち別添えで反応式を示さなくても「ベンゼンの酸化電位」と述べるだけで必要な情報は全て指定できる。

 

補足2: 酸化還元電位はあくまで熱力学的な電子授受の有利さのパラメータであり、活性化エネルギーといった速度論的な話はまた別である。そのあたりの話ではマーカス理論が非常に有名で「熱力学的に有利すぎると逆に反応速度が低下する"逆転領域"がある」とか「電子授受の前後で溶媒の配向を変化させるために必要な"再配向エネルギー"が重要な役割を演じる」などと言われている。詳しい話は他のサイトを見てほしい。

 

補足3: 基本的な話だが、1ESを求める際に吸収スペクトルではなく蛍光スペクトルを用いる理由は分かるだろうか。簡単に言うと、分子は少し余分にエネルギーを吸収したあと、そのエネルギーを熱的に少し放出してから蛍光や電子移動などを行うからである(Kasha則)。詳しくは後日、別の記事として書く。

 

以下は特に私の個人的な考えが多く含まれるので、誤りがあったら教えて頂けると幸いです。

 

補足4: 最初にRehm-Wellerの式を見たときに、素朴な疑問として「eV単位の1ESとV単位のEをそのまま足してしまっていいのか」と思ったが、そもそもeVの定義は「一電子が1 Vで加速されたときのエネルギー」であって、今まさに一電子の話をしているわけだから、eVをそのままVとしても問題ないんだろうと何となく納得している。

 

補足5: 上述のRehm-Wellerの式では、基底状態の電位と励起状態の電位の差を一重項の励起エネルギーとしているが、電子授受が常に一重項から起こるとは限らない。例えばS1からT1への項間交差が速く、T1から電子授受が起こる場合もあるだろう(有名なフォトレドックス触媒である[Ru(bpy)3]2+もその一つである)。この場合、T1からS0への発光は長寿命のいわゆる”りん光”であり、室温では消光されることが多いため、測定方法にも少し違いが出てくる(ただし[Ru(bpy)3]2+の発光寿命はそんなに長くなく、普通に蛍光の部類らしい [Ru(bpy)3]2+は「室温で比較的高い量子収量でりん光が観測できる.T1の寿命は室温で約1 µsとかなり短い.」(丸善出版『光化学Ⅰ』77ページより引用))。また、アズレンのようなごく一部の分子はS2から蛍光を放出するが、その場合にも"基底状態の電位と励起状態の電位の差"と蛍光ピーク波長にはズレが生じる気がする。

 

補足6: 補足5のような”例外”を排して、蛍光も電子授受もS1から起こるような最も単純な場合であっても、"基底状態の電位と励起状態の電位の差"と蛍光ピーク波長にはやはりズレがあるように思う。分子は一般的に基底状態励起状態で異なる最安定構造を持つ。ある分子が「基底状態の最安定構造」である点Aから垂直に(つまり構造を変えずに)点Bへと励起されたのち「励起状態の最安定構造」である点Cへと緩和し、最後に蛍光を発して点Dに落ちる場合を考える(その後、点Dから点Aへと緩和する)。

一般的に励起過程と緩和はかなり速いので、蛍光と電子授受は点Cから起こるとする(詳細は別記事)。このような前提をおくと、励起状態の電位はCのエネルギーに対応する。一方で、基底状態でも系中の大多数の分子は最安定構造で電子の授受を行うだろうから、基底状態の電位はAのエネルギーに対応する。つまり、"基底状態の電位と励起状態の電位の差"はAとCのエネルギー差に相当するにも関わらず、蛍光ピーク波長はDとCのエネルギー差に相当するわけだから、両者にはAとDのエネルギー差の分だけズレが生じてしまうと推測される。

これを分子軌道の観点から説明すると、そもそも分子軌道の分布やエネルギーは分子の構造依存であるから、これを酸化電位と結び付けて考える時にはA,Bの構造におけるHOMOのエネルギーC,Dの構造におけるLUMOのエネルギーを比較しなければならないはずである。本文中では単純に「HOMOとLUMOのエネルギー差」と言ってしまったが、これは「”A,Bの構造におけるHOMOとLUMOのエネルギー差”も”C,Dの構造におけるHOMOとLUMOのエネルギー差”も同一で、これが"基底状態の電位と励起状態の電位の差"を表している」という誤解を招きそうで、少しミスリーディングではある。

このような誤差を背景としているかどうかは定かではないが、実際は蛍光のピーク波長ではなく、ピーク波長よりも短波長側の、ピーク強度の10%の蛍光強度を持つ波長を採用すると良い精度を与えるらしい(文献: J. Phys. Chem. 1992, 96, 6640–6650)。